人間の「本質」と「人格」について(グルジェフの思想から)

先日ラズベリージャムを買ったが、神秘思想家グルジェフの本に出てくる「人格が優位な男性」の話を思い出した。この話はP.D.ウスペンスキーの著書『奇蹟を求めて』に出てくるものだ。

グルジェフの思想では、人間は「本質」と「人格」という二つの部分から成り立っていると考える。「本質」とは、その人自身に備わっている特質のようなもので簡単に失われることのないもの。一方「人格」とは、その人が本来もっていない外側からきたもの、つまり教育や文化的なものの影響、子供時代に周囲の人々を無意識に模倣することによって身に着けたものとされる。

本質とは人間の内なる真実であり、人格は虚偽だ。しかし人格が生長するにつれて、本質はしだいに自己を表現することがまれになり、また弱くなり、そして本質は非常に初期の段階でその生長をやめ、それ以上生長しないということもしばしば起こる。成人の本質、非常に知的で、一般に認められている意味で高度の<教育を受けた>人間の本質でさえ、五、六歳の子供の段階で止まっていることもよくある。これは、この人間の内に我々が見るすべてのものは、現実には<彼自身のものではない>ということだ。人間の内の彼自身のもの、つまり彼の本質は、普通彼の本能、または最も単純な感情の中でのみ顕現する。とはいえ、本質が人格と平行して生長するケースもあるにはある。そのようなケースは、とりわけ文化生活という環境のもとでは非常にまれな例だ。
(P.D.ウスペンスキー著、浅井雅志 訳『奇蹟を求めて』平河出版社 p.263 )

私が思い出したのは、グルジェフが「人格」と「本質」を分離する実験を行った話だ。(『奇蹟を求めて』p.392-395の部分)。年配の人と若い人の二人が実験台になった。普段は高尚なことを論じている年配の男性が、特殊な催眠状態の中で人格の活動が抑制され本質が優位になると、ほとんど何も語らなくなり、先ほどまで熱心に論じていたことを話題にしても無関心な反応が帰ってくる。「何が欲しいのか」と質問されると初めは「何も欲しくない」と答えるが、もう一度強く答えを求められると、しばらくしてから真剣な声で「ラズベリー・ジャムが少しばかり欲しい」と語った。
もう一人の若い男性は、普段はあまり真面目な態度ではなかったが、実験の始まりから声の調子が変わり、それまでの自己観察の成果などを真剣に語り始めた。この若い男性は逆に本質が優位な人だったといえる。

彼らは二人とも、次の日には何も覚えていなかった。G(グルジェフのこと[引用者注])は次のように説明した。すなわち、最初の人の普通の会話、驚き、動揺の原因を形成しているものはすべて人格の中にある。それで、彼の人格が眠っているときには実際何一つ残っていない。もう一人の方の人格には非常な話し好きの性癖があるが、それでもその背後には人格と同じだけ、しかもそれよりよくものを知っている本質があり、人格が眠り込むときには本質が代わってその部署につく、しかもその部署に対してはもともと本質の方がずっと正当な権利をもっているのである、と。

G ―― 彼が自分の習慣に反してほとんど話さなかったことに注意しなさい。しかも彼は君たち全員と、そこで起こったことをすべて観察し、何一つ見逃していない。

 「しかし、もし彼がそれを覚えていないとしたら、観察は何の役に立つのですか」と誰かが聞いた。

G ―― 本質が覚えている。人格は忘れる。でもそれは必要なことなのだ。というのは、そうでないと人格は何もかも歪めてそれを全部自分のものだと思いこむにちがいないからだ。
(『奇蹟を求めて』p.395-396)

グルジェフはロシア語で話をしたようですが、英語版の本では「本質」はEssence 、「人格」はpersonality となっています。